高儀の歴史


明治初期、玩具商を営んでいた高儀の初代“高田儀三郎”は、お伊勢参りの帰り名古屋で見た紙鯉にヒントを得てイカ(和凧)職人に紙鯉を作らせたところ、これが大いに人気を呼んだという。当時、幸いにも大阪から堺へ通る住吉街道筋には多くの勝間凧(こつまたこ)の職人たちがいた。関西鯉の特徴とも言える鯉本来の姿形を取り入れた鯉幟は「高儀の鯉」として、関西に知れ渡った。明治中期以後、織機の発明により、広幅の白生地に描くようになったという変化があるだけで、手描きによる形状や色使い作成方法など、当初から全く変わらず今日に至っている。現在は五代目高田為八氏と六代目高田武史氏の二人で制作。


明治初期:大阪で初めて和凧職人に手描きによる紙鯉をつくらせ販売。

明治中期:鯉幟は和紙から布に。

明治終~大正年間:真鯉に初めて金太郎が乗る。

大正~昭和初期:高儀が歴史上一番の隆盛を極めた時期。多くの職人を雇い、ハワイにも輸出。

昭和20年:高田為八氏、四代目に師事。

昭和46年頃:世間ではナイロンのスクリーン印刷が盛んに。(手描き鯉幟の危機的状況)

昭和56年:高田武史氏25歳のとき五代目為八氏に師事。

昭和61年:大阪府知事指定「大阪の伝統工芸品」となる。

平成02年:五代目高田為八氏、大阪府知事から「伝統工芸士」としての認定第6号を受ける。

平成06年:六代目武史氏、大阪府知事から「伝統工芸士」としての認定第45号を受ける。

平成06年:ニュージーランド・ウエリントン市にて実演。大盛況、大好評を博す。

平成10年:「堺まちかどミュージアム」の指定を受ける。

産業文化大阪府知事表彰、功労者大阪府知事表彰、大阪府知事賞受賞、大阪工芸会会長賞受賞等数々受賞


■「鯉幟」の歴史

江戸中期、まだ鯉幟が和紙の頃、広重の絵図には真鯉(黒)のみだった。その後五色の吹き流しが現われ、明治中期に緋鯉が登場。現在では「真鯉(黒)」「緋鯉(赤)」「子どもの鯉(青)」「吹き流し(五色)」でワンセットとなっている。